鏡の中の……
鏡の前であたしは考えていた。
鏡にうつっている自分を見つめていた。
白い、肌。紅い唇。意志のない瞳。短くなってしまった髪の毛。
鏡にうつってるのは、もしかして自分じゃないのかもしれないなんて疑いだしたのはいつごろだったろう? 扉のむこうで楽しそうに笑い合っている彼と親友のかわりに、鏡の中の扉のむこうには、鏡の前で座ってるあたし’のために珈琲をいれている彼’の姿を思い浮かべるようになったのはいつのころからだったろう。
鏡にむかって話しかけるくせができたのはいつからだろう。
「あなたがうらやましいわ。彼はあなたを見つめてるのね」
鏡の中のあたし’のほおに涙がつたわる。あたしは思わずあたし’の涙をふいてあげようとして鏡に手を伸ばしたけれど、無情なガラスがあたしたちの間に詰めたく横たわっていて、さえぎられてしまう。
「いつごろからだろう、彼があたしじゃなく、彼女を見つめるようになったのは。あたしがそれに気づいたのは……」
彼はあたしの幼なじみだった。ずっと小さい頃から一緒で、彼は、あんまり身体の丈夫じゃないあたしを愛しんでくれたし、あたしも彼を愛していた。結婚の約束もしていたのに。
彼はいつの間にかあたしの親友を好きになっていた。あたしとちがって活動的な彼女に……。彼はあたしに言葉をきりだせなかった。だから、あたしがかわりに言ってあげたの。
「あなたは同情と友情を、愛と勘違いしてただけなのよ。いいの。彼女を愛してるんでしょう?」
それだけで、せいいっぱいだったわ。彼があたしじゃなく、同居してる彼女のところに毎日通ってくるのを見ている自信はあたしにはなかった。だから、あたしは鏡の中のあたし’に淋しさと哀しさを話したのだわ。
あたしは泣き疲れて、鏡の前に座ったまま寝てしまった。
夢の中であたしは、寝ている自分の姿を見ていた。もちろん、鏡のむこうがわのあたし’も。
あたし’の部屋の扉がふいに開いた。
あたしの意識はあわててあたし本体の部屋の扉を振り返る。
開いていない。
あたしはまた、鏡のむこうの扉に意識を戻した。
扉を開けて入ってきたのは彼……いや、彼’だった。
手に珈琲をもっている。
ああ、やっぱり。あたしはそう思った。
彼’は鏡の前で寝ているあたし’をみて自分の着ている上着を脱いであたし’の肩にかけた。
愛おしそうに目を細めて、あたし’の髪の毛にそっとキスをする。
それから彼’は目を上げて……あたしは一瞬ドキっとしたけれど、彼’は鏡は見ずにそのまま出ていった。あたしはなぜかホッとした。
あたしの意識はいつの間にかあたし本体の中に戻っている。
思い切って、鏡のあちら側のあたし’に声をかけてみた。
「ねえ、あなた、聞こえる? あたしよ、ねえ起きて」
あたしは起きていたがあたし’はまだ寝ていた。
あたし’は、一瞬ぴくっとして、身をおこした。
「か、鏡が……」
言葉を失ったあたし’にあたしがかいつまんで事情を説明した。
「そうだったの。あたしの思いが通じたのね」
「あなたの?」
あたしはいぶかしんだ。
「そうよ、あたし、いつもあなたと話がしてみたかったの」
あたし’は言った。
「あなたの世界では彼はあなたじゃなく、彼女を愛したのね」
あたしは瞳を伏せた。
「あたしは、まだ彼を愛してるの」
今度はあたし’が瞳に涙をうかべた。
「あたしは彼を愛せなくて悩んでいるの。彼は、あたしをとても愛してくれるけど、あたしには……幼なじみの優しいお兄さんとしか、思えないの」
あたしは驚いた。
彼を愛しているあたしは彼に捨てられ、彼を愛せないあたしは、彼に愛されている。
2人で溜息をついた。
今、あたしはあたし’に手を伸ばすことが出来た。間にあるべき障壁はとりはらわれていた。
「あたしは、彼に愛されたいの……愛してるのよ今でも」
あたし’はあたしの言うことが判ったらしく、大きく頷いた。
「あたしたち、お互いにしあわせになるために、入れ替わるべきだわ」
あたし’は迷っている心を吹っ切るように言い切った。
「でも、そうすると鏡のこっちとそっちで、世界がズレてしまわないかしら?」
あたしはまだ踏み切れなかった。あたしの言葉一つで世界が変わってしまうのだとしたら……
「前から、あたしたちの世界とあなたの世界はちがっていたのでしょう? 大丈夫よ、今までと大して変わらないと思うわ」
「そう、かしら」
あたし’の言葉には説得力があった。なんとならばそれはずっとあたし自身が考えていたことでもあったから。
あたしとあたし’の意見は一致した。
鏡をぬける。
そこで、目が覚めた。
あたしは鏡の前で寝ていた。
そうするとあれはすべて夢だったのだろうか?
あたしは、もとのあたしの世界に言ったはずのあたし’に鏡の前でウィンクしてみせた。あたし’も同じくウィンクしていた。
ためしに鏡に触れてみた。間にあるガラスの冷たい感触が掌につたわった。
とりあえず、あたしは扉をあけて、部屋を出てみることにした。
それが、あたしの部屋の扉だったにせよ、あたし’の部屋の扉だったにせよ。
飛び荷の外には、彼があたしを待っていてくれた。手に熱い珈琲をもっている。
あたしはためらわず、彼の腕の中にとびこんだ。

おわり。