タイトル未定5
 空気が澱んでいる。
 息苦しい。
 今夜は特別に暑いようだ。もっとも日中もずいぶんと嫌な天気ではあったのだ。陽射しがきつい。照り返しで視界が白い。晴れているのに、妙にくすんで、気力とか活力といったものをなくしてしまう、そんな一日だった。
 だが、とりあえず今は夜、だ。誰もが寝所に入り、夢の支配をうけている。
「ん……」
 夜の闇の中で、少女が身じろぎした。
 細い腕で額の汗をぬぐう。
 寝苦しい。床に入ってから、かなりの時間が過ぎているのに、一向に寝つけない。眠くないわけではないのだ、だが。
 王宮の中で少女は重苦しい空気の流れを感じながら、眠る努力をしようとした。
 隣のベッドで寝息を立てている姉を見る。
「よく、寝てるみたい、ね。私はちっとも眠れないっていうのに……」
 かわいらしいほっぺたをふくらませて、少女は独りごちた。
 暗闇に目が慣れてくると、あたりの様子がうっすらと見えてくる。
 部屋の真ん中に並べられた2つのベッドは、沈み込みすぎないよう、少し固めに調節されていて、柔らかなシーツと、肌触りのよい毛布の重なりが、いつもなら心地よい寝場所のはずなのに……
 少女は金の髪を左手ではらい、姉の寝顔をのぞきこんだ。彼女の姉も少女自身と同様に美しい。いや、より正確に言えば、この姉妹は全くといっていい程に、そっくりである。
「あふっ」
 姉をじっと見おろしていた少女も、ついに睡魔にとらわれた。ゆっくりと、しかし確実に深い眠りに落ちていった。

「ニ、ターニ、ターニ・アスィール」
 頭上でやわらかい声がして、ターニは目覚めた。
「タウィール兄様……おはよう、ございます」
 彼女は身体を起こしながら、その兄を見た。彼はターニやその姉ウーラとは違い、黒髪と黒い瞳をもっている。長い髪を彼はいつも背でひとつに束ねている。今もそうだ。
「おはよう、ターニ。目が、覚めた?」
 彼は言葉の後半を、ゆっくりと、確認の意味でもって言った。
 ターニが兄の言葉の意味を掴むのには少し時間を要した。
「何か、あったの?」
「……ウーラが、いなくなった」
「なぜ?」
 そんなはずはない、だってつい先程まで姉は自分の隣のベッドで寝ていたのではなかったのか。
「ターニ・アスィール、目を覚ませ」
 ターニ・アスィール。そう私は高貴なる者、だ。ターニは大きく息を吐きだした。
 タウィールが言葉をつぐ。
「ウーラの姿が見えない。ターニ、心当たりはないかい?」
 ゆっくり深い息をして、ターニは姉の姿を心に描いた。
 身長は160 センチくらい、細身だ。色が白い。外出をほとんどしないので陽に焼けないのだ。胸のあたりまである金の髪はストレート。瞳の色は、たぶん赤。どちらかと言えば、美人だ、と思う。
 ターニの意識が瞬間、拡大した。軽い浮遊感と喪失感をともなって、意識が肉体の壁を越える。一瞬にして時間とか空間といった物理法則を越えてそれが届く。ターニの心に、直接。
「……け…ニ……ターニ、助け、て……魔…」
 ターニの口からもれる微かなつぶやきを、タウィールは聴いた。それは明らかにウーラ、自分の妹であり、ターニ・アスィールの半身であるウーラ・ルゥヤのものだった。
 ターニとウーラは双児の姉妹だ。外見の差異はほとんどない。強いてあげるならば、姉ウーラのほうが少し、肌の色が白い、というところだ。この二人の姉妹は兄であるタウィールとはちがい、見事な金の髪を有している。そして、それは特別な意味をもつのだ。
「夢・魔……西」
 それだけ言うとターニの身体が前へ大きくかしいだ。
「ターニ!」
 倒れかけた妹を支えてやりながら、タウィールは嫌な予感を覚えていた。
 この自分の腕の中で気を失っている、小さな少女はその身に、あまりにも大きな運命を背負っている。その半身であるウーラと共に。
大きな運命。そう。タウィールは、妹の躰をベッドに横たえながら考えた。王家に生まれた。それがまず初めの運命だったのだろう。そして、金の髪をもっていたこと……
 金の髪は、王族のみに時折現れる“能力者”を表わす。ウーラは“視る力”を、ターニは“念力”を持っている。彼女たちは二人で一つで、どちらが欠けてもいけない。どちらか一方だけでは偏りすぎてしまうから……二人で互いを補いあう、彼女たちはそういうふうに“能力”を与えられたのだ。
 そして今、歯車が大きな音を立てて回りはじめている。

 ターニは宮廷を歩いていた。いつものように、光の加減によって薄い紫やブルーの影ができる、白いドレスを着ている。長い裾が歩幅にあわせて揺れる。
「ウーラ……」
 ターニの表情は沈んでいる。
 大丈夫かしら? 夢魔にとらわれたウーラの助けを求める声が、時折きこえる。西……嫌な感じがする。身体の奥で何かがくすぶっている。
 大きな樹の下でターニは立ち止まった。
 この樹は彼女のお気に入りの場所だ、何か考え事をする時、ふと散歩の途中に、居眠りの場に、いつもここに来た。大きな樹は彼女に心地よい安らぎを与えてくれるから。
 樹の枝、葉の先から、午后のやわらかな光とともにあたたかいオーラがターニの上に降りそそぐ。
 樹の太い幹にもたれるように座って、ターニがウーラの身を案じてその心を浮遊させていると、目の前の茂みが大きく分かれて一人の青年を吐きだした。
「ターニ・アシィール姫」
 彼はにこやかに立っている。
 ターニはまだぼんやりしたままで、その青年を見上げる。
 青味がかった黒髪を短く切りそろえて、瞳はダークグレイ。背は高く、ほっそりとしている。
「姫? 婚約者殿お目覚めですか?」
「……アミール王子。ウーラのことをお聞きになったのですね?」
 王子はうなづくと、ターニの横に腰を下ろした。
 ターニ達の父、サーヒブ・アル・ワタニィの治めるマディーナ・ワタニィ国は、南隣をジャール・ビラーディ王国と接し、西を異形の者達の棲息する森と、北は広大な荒れ地の向こうに大陸一の大国ミスルを臨み、東には草原とそれに続く多くの国々をひかえている。 そういう中でマディーナ・ワタニィとジャール・ビラーディは昔から婚姻を繰り返して、血の結びつきを作ってきた、同盟国だった。
 その隣国の第三王子で、ターニ・アスィールの許婚者でもあるアミールは、頻繁にマディーナを訪れる。国王からの用を預かってくることがほとんどだが、実際、ターニの顔を見たくて用をつくっている感がなきにしもあらず、といったところだ。
「君の兄上から、聞いたよ。たいへんだったね」
 アミールは軽くターニの頭に手を置く。
「ウーラが、私を呼んでるの……私たちは、2人で1人だから……」
「大丈夫だよ、ターニ。ウーラに何かあれば、君は判るはずだろう?」
 ターニが小さくうなづく。
「そうね、ウーラは大丈夫よね」
 そう言って、一瞬遠い目をする。
「それよりも」
 アミールが言う。
「君がこんな様子じゃ、ウーラ姫よりも先にまいってしまうんじゃないかと思うよ……ターニ、僕はそのほうが心配だ」
 ターニはアミールに肩を抱きすくめられたまま、はっとしたように目を見開いた。
 そうよ、こんなところで心配してたって、なんにも始まらないんだわ。ウーラの意識をたどればだいたいの居場所はわかる。それができるのは、私しかいないんだもの。私がウーラを、姉さんを助けなくちゃ。
 そんなことを考えたのは、しかし、ほんの一瞬でしかない。軽く、アミールの腕から逃れながら「私は、大丈夫よ」と言ったときにはいつものターニに戻っていた。
「さあ、お兄様が心配してるわ。もう、空があんなに……」
「ほんとうだ。きれいな夕焼けだ」
 空が赤く染まっている。沈みかけた太陽は真紅だ。目が離せなくなる。まるで血のようだわ、ターニは思った。あまりにも美しくて、そしてあまりにも危険な、赤。
「さあ、そろそろ行かないと」
 アミールの声に、やっとターニは夕陽から目をはずす。
「そうね、行きましょうか」
 2人は足早に城へと向かった。まるで未来という名の予感に追い立てられているかのように。

 3人の男女がテーブルを囲んでいる。2人の男と、1人の少女、だ。男2人は黒髪、ただし1人は短髪で、今1人は長い髪の毛をうしろで1つに束ねている。短髪の男のほうが少し若いだろうか。
 そして、少女。少女は見事な金の髪を冠している。物憂げにうつむいた瞳は紫。
「お兄様」
 少女が髪の長い方の青年に話しかける。
「お父様は探索隊をだされるかしら」
「いや」
 少し考えながら、兄は妹に応える。
「巫子姫が……金の双星の一人がいなくなったと知られれば、国中が大騒ぎになるだろうからね」
 彼は西方の村々を思い浮かべた。どこの国にも属さない小さな村が点在するだけの、西方。山合いの小さな窪地を利用しただけの、ほんとうに小さな村々。そのどこかに、夢魔にさらわれた妹姫、ウーラ・ルゥヤはいるのだろうか。いや、奥深い森の中にひそんでいるのかも知れない。
「では?」
 隣国の王子が尋ねた。
「俺が、行こうと思う。父君には先程お許しをいただいてきた」
「でも、お兄様……」
 心配そうに、妹が見つめる。
 それを見て取った隣国の王子が、自分よりも背の高い男に提案する。
「では、僕がご一緒しよう、タウィール王子」
「アミール! それは……それはできない。あなたには、今一人残された妹を、ターニの側についていていただかなくては……」
「私は、大丈夫よ」
 ターニはそれだけ言って口をつぐむ。あまり喋らないほうがいいと思った。兄上は鋭い、あまり喋って心の内を気づかれてはいけない。
 アミールはターニを優しい瞳で見ると、その兄に向かって言った。
「タウィール、姫もこう言っているし、それにサーヒブ殿が我が許婚者の周りを固めてくださるだろう?」
「そう、だな」
 タウィールは言った。たしかに父王は金の双星のためになら、白の塔から、賢者や魔法使いたちを呼ぶだろう。それなら、一応ターニの安全は大丈夫だと言っていいだろう。
「では、朝にでも出発しましょう」

……続く