タイトル未定3
森の中でもひときわ大きな木の下で、ターニが横たわっている。
 木々が、少しでもターニに陽を当てようとしているかのように、そこだけが、折り重なった枝葉を透かして光を満たしている。
 ターニは眠っているようだ。
 息があらく、ほおが赤い。熱にうかされて、見えないものでも見ているかのように険しい顔をしている。
 しかし、本来なら、彼女のそばにいるべき人物は見当たらない。熱もあり、具合の悪いターニを一人にしていなくなる二人ではないはずなのだが……。
 眠りと、現実の混濁した意識の下で、時間までがゆっくりと永遠の時を刻んでいるかのようだ。
 不意に、冷たいものが首筋にふれる。ターニの呼吸がゆっくりと、おだやかなものになっていく。
 深い、眠りの中に落ちていく。

 アミールは、焦っていた。
 水筒に水を満たしてくるだけのことに、思いもかけず時間をとってしまった。薬草を探しに行っているはずのタウィールは、もう戻っているだろうか?
 黒い影がアミールの視界の端にはいる。
 とっさに彼は剣を抜きはなっていた。影はターニに覆いかぶさるようにしていたのだ。「やめてーーー」
 鋭い声が響くのと、アミールの剣が空中で止まるのとがほぼ、同時だった。
「何をする!!」
 突然、目の前にとびこんできた少女、に言う。
「この子は、おとなしい妖物なの、殺さないで」
 まだ、10歳にも満たぬだろう少女は、言いながらアミールの手をとって、“影”の正面に回る。
「ほら、熱をさましてたの」
 黒く大きな、まるでクマのような姿をしたその妖物は、少女の視線の先で、鋭いツメをターニの首筋にあてている。
 アミールは警戒をとかずに、少女に問いかける。
「……これは、君のペットかなにか……なのかな?」
 こんな、3メートルもありそうな“妖物”が? アミールは信じられないものを見る目で、妖物をもう一度ふりあおぐ。小柄な少女など、その妖物の黒く大きな手ですっぽりと包み隠せそうなほどである。
「そういう訳じゃないけど……わたしの村で、飼ってるの、ホサーンっていうんだけど……」
「村? 村があるのか」
 アミールは妖物の鋭いツメで、ターニの首を掻ききってしまわないように注意しながら彼女を抱き起こし、木にもたせかける。熱で渇いてしまった口唇をくんできたばかりの水で湿す。妖物は、おとなしくアミールを見つめている。黒目がちの瞳が濡れたような輝きをもって、見ようによってはターニを心配しているようだ、とアミールは思った。
「うん、ちょっと、離れるけど……」
 少女が前方を指さして言う。しかしその先は深い森に閉ざされていて見通すことはできない。
「どのくらい、かかる?」
 突然背後から声をかけられて、少女がとびあがる。丁度少女の背後にある木の影からタウィールが現れたのだ。
「タウィール、薬草は?」
 アミールに手の中の薬草をかかげて見せながら、タウィールは妹の額に手をあてる。熱は下がってきているようだな、と妖物をふりかえって礼を伝える。
「……20分くらい、かな」少女が首をかしげて言う。
「……それから、それ、薬草じゃ、ないよ」
 言われて、タウィールは手の中の“薬草”を確かめる。
「よく似てるけど、ここ」
 ほら、といって少女が葉の付け根を指差す。
 言われてみれば、葉の付き方が多少違うような気がしなくもない。
 タウィールはしゃがんで少女と視線を合わせる。
「薬草に詳しいみたいだね、ありがとう」
「んん、村のみんなはもっとよく知ってるよ」
「名前、教えてくれるかな」
「ビントゥ」
「ビントゥか……タウィールだ」
「僕はアミール。彼女はターニだよ」
 お互いに自己紹介をすると、タウィールは言った。
「村に、連れていってもらえるかな? はやく、ターニを休ませてやりたいんだ。」
「うん、村に帰れば薬もあるよ」
 ビントゥが先頭に立って言う。アミールがターニを抱いてそれに続く。その後ろをホサーンが、最後尾をタウィールが守る。妖物はおとなしくついてきている。ビントゥが言ったように、ほんとうにおとなしいモノなのだろう。アミールだけが少し心配気にときどき後ろを振り返ったりしている。
 だいじょうぶ、ホサーンはいい子だから、とビントゥが笑った。

 木のテーブルをアミールがイライラと小突く。けして広いとは言えないビントゥの家の食堂で、ベッドで休んでいるターニの様子を見ているタウィールの戻りを待つ。アミールとしてはターニについていたいのだが、彼女の兄であるタウィールがそれを禁じたからだ。許婚者とは言え、まだ結婚したわけではない、という彼の言葉に、アミールはたしかにそれはそうだが、しかし、それでもターニについていてやれる“兄”という存在にシットしてしまう自分を押さえられなかった。
「……どうだった?」
 やっと食堂に戻ってきたタウィールにかみつくようにしてアミールが言う。
「薬が効いたみたいだ、眠っているよ」
 というタウィールの声に、あきらかにホッとした様子でアミールがため息をつく。
「手遅れにならなくて、よかったですよ」
 ビントゥの母親が言った。古いけれど、清潔な、若い母親らしい淡い色の服を着た女性だ。長い髪を結い上げている。
「ありがとう、助かりました」アミールが頭を下げる。
「いやですよ、こんな森の中じゃ、おたがいさまってやつでね」
 ケラケラと笑う。
「サラーシールの毒は猛毒だけど、大丈夫。手当てがはやかったし……」
「ほんとうに、助かりました、私たちだけではどうしようもなかったし。あそこでビントゥにあえなければ……」
 タウィールは、ビントゥの母、ウンムに言った。実際、もしビントゥにあえていなければ、ターニの高熱がサラーシールにやられたものだということにさえ気づかずにいただろう。そのビントゥの村が薬師の村だったことは、できすぎた偶然だった。
 サラーシールは小さな虫で、湿地帯のような場所を好む。猛毒をもつが、ふつう人の住むようなところにはいない虫なので、解毒剤のようなものもなく、どんな薬草が効くのかもあまり知られていない。
「ともかく、みなさんも少しお休みになってくださいな。それで、疲れがとれたら村長におひきあわせしますから、ね? じゃないと、娘さんが良くなっても旅が続けられませんよ。ティッブはよく効く薬草ですからね。明後日には発てますよ」
 ウンムは、ともすれば自分を責めて沈んでしまいがちなタウィールとアミールを、引き立てるように言った。
「さあさ、客室にご案内しますよ」
「いろいろと、申し訳ない」
 タウィールもウンムの気遣いが判ったので、なんとか笑おうとした。苦笑程度にはなったかな、と思う。
 西には向かっているものの、ほんとうに目的に近づいているのか、父王サーヒブとの約束の刻限までに間にあうのか、ウーラをどうやってとりもどすというのか、考えなければいけないことは山のようにある。しかし、とりあえず今はターニの回復を待って、この家の主人のやさしさに甘えることにした。
 せまいが、小ぎれいに片付けられた部屋と、ウンムやまだ逢ってはいないがその主人ワーリドの人柄によって、固いが、しかしあたたかく整えられたベッドで2人は久し振りに深く、そして充分に休むことができた。

 翌朝パンを焼くにおいで目を覚ました二人が、身仕度を整えて食堂に降りていくと、食事の用意をしていたウンムが気付いて声をかけた。
「あら、おはようございます。今食事ができたんで、呼びに行こうと思ってたとこなんですよ」
「おはようございます」
 勧められるまま、タウィールとアミールが食卓につくと、ウンムが給仕をしながら言った。
「お食事を終わられたら、主人が村長のところにご案内いたしますわ」
 焼き立てのパンと野菜くずのスープ、何かのタマゴを焼いたもの、それと木の実のジュース。素朴だがあたたかく、おいしかった。
「ごちそうさま」アミールが言った。
「何にもなくて、ごめんなさいね」
 ウンムが笑いかける。
「ワーリドを呼んできますわ。ちょっと、待っててくださいね」
「その前に……」
 タウィールが呼び止める。
「ターニの様子を見てきたいのだが……」
 ウンムが、ほほえみながらうなづく。
「ついさっきまでは休んでらしたけど、もう熱もさがってるし、大丈夫よ」
 心配そうな顔をしたアミールに気づいて、つけくわえる。
「そうね、目を覚ましてたらスープでも飲んだほうがいいわね」
 見てきてくれる? 目で言ってウンムはターニのためのスープをつぐ。
「ありがとう、アミールはここで待っててくれ、すぐ戻る」
 スープ皿を乗せたお盆を受け取ると、タウィールはアミールの返事を待たずにターニのいる寝室へと向かった。
 部屋の前で少しためらったが、軽くノックして部屋に入る。ターニは静かに眠っている。ベッドの傍らに木製の小さな腰掛けを持ってきて、タウィールは妹の寝顔をのぞきこむ。ウンムの言った通り、熱は下がったようで、呼吸も静かで安定している。
「ターニ……」
 愛している……と心の中だけでつぶやいてみる。
「ん……」
 ターニがベッドの中で小さく身をよじる。
 なんどか瞬きを繰り返して、眼を開ける。
 瞳の色は、紫。
「お兄様、おはようございます」
「おはよう、気分はどう?」
 ターニの額に手をかざしながら言った。熱が下がった反動で少し冷たくさえ感じる。
「大丈夫、みたい」
 言って、身体を起こす。長い金の髪が背に揺れる。
「どこも痛くないし」
 どのくらい、意識を失ってました? というターニにタウィールは丸一日だ、と応える。ここは? と聞く彼女に、村があったので休ませてもらっている、とだけいって、スープをすすめた。
「少しでも入るなら食べたほうがいい」
 ターニは素直に兄の手からスープ皿を受け取る。おいしい、と微笑みながらスープを飲むのを、タウィールは静かに見守った。
「俺たちは村長の話を聴きに行ってくる。ゆっくり休んでなさい」
「ん、そうする。ごめんね」
 うつむくターニの頭をかるく撫でてやりながらタウィールは、早く元気になりなさいと、毛布を胸まで引き上げてやる。
 静かに目を閉じて眠ろうとするターニを見届けて、部屋を出る。
「あら、お目覚めでした?」
 ウンムがタウィールの持った盆の上の空になったスープ皿を見て言う。
「ええ、ちょうど目を覚ましたので、スープを飲ませました。また、眠ってます」
 アミールが心配そうに眉を寄せる。
「本当に大丈夫なのか? ずいぶん熱が高かったように思うけど……」
「熱は下がっているし、もう一日寝てればよくなる。ターニはもともと身体は丈夫なんだ」
 タウィールが安心させるようにアミールの肩を叩く。
「長のところに連れていっていただけますか」
 タウィールが食堂に戻ってきた時からいた、この家の主人に声をかける。
「ここは薬師の村だし、旅を続けるのに必要な森の情報とかもあると思いますよ」
 妻と同じく、愛想のよい闊達な男だ。がっしりとした体格と短く刈り込んだ髪がよく似合っている。
 ウンムと、やっと今起きてきたばかりのビントゥに見送られて家を出る。
 ワーリドと歩いていると、村中の人から挨拶される。昨日一晩のうちに人口30人足らずの小さな村では、3人の客人のことは知れ渡っているわけだ。ターニの具合を聞いてくる人たちに応えながら、村を横断するように歩く。
 長の家は村の一番奥まったところにあった。
 他の家々に較べてかなり大きく、古びた感じがする。重たそうな木の扉は所々朽ちていて、年代を感じさせる。いかめしいノッカーを鳴らすと、しばらく間があってから「どうぞ」と返事があった。
 入口を入ってすぐのところに地下へと続く階段がある。その階段の左にかなり広い空間があり、その真中の大きな椅子に小さな身体を沈めるようにして、白い髪と白い髭の老人が座っている。
「長、客人を連れてきましたよ」
「サラーシールの毒にやられたっていう娘さんはどんな様子だね?」
 村長がワーリドに言う。低いがよくとおる声。とても目の前の小さな身体の老人から発しているとは思えないような、若い、というのではない、時を封じ込めたとでも言えばいいか、とにかく不思議な声だった。
「ティッブを煎じたものを飲ませました。熱はひいてるし、今朝は意識も戻ったようだ。記憶障害とかもなさそうだし、体力の回復を待っても明日には出立しても大丈夫と思いますよ」
 村長はうなづくと、視線でワーリドに席を外すよううながした。ワーリドが外へ出るのを待って話しはじめる。
「我々は代々薬師として、薬草や毒草、病気や森の妖物について研究している」
 そこまで言って一度言葉を切ると、村長はタウィールの眼を見てゆっくりと話しはじめる。
「村でも一部の者……代々の長たちくらいしか知らないことですが、我々の祖先はもともと王家に仕えた薬師たちなのです。それが、なぜこんな森の奥深くまで引っ込んでいるのか……森の中には町にはない珍しい草木や動物、妖物がいます。王家を守っていくために、いずれはそういったものを研究していかなければいけない、そう思った者たちが森の中に移り住んだのです。……それが、我々の祖先になります」
 タウィールは黙って聴いている。アミールもタウィールの横で長の言葉の意味を考えている。
 長が続ける。
「ご一緒だった娘さんは金の髪をしておられるとか……王族の方たちですね」
 言ったなり、長は黙ってしまう。タウィールたちの反応なり、返事を待っているのだろう。
 タウィールはアミールと一瞬目をあわせたが、ここで身分を明かしていいものかどうか、まだ決めかねていた。
「……なぜ、そう思われるのですか?」
 村長はふっと眼を細めてタウィールを見る。まるで愛し子を眺める祖父のような眼で。
「金の髪は、“力”を示す。そしてそれは、王家にのみ存在した血だからです。王族の方たちがたった3人で、しかも供も連れずに異形の森深く旅されている……なにかあった、と考えるのが普通です」
 沈黙があった。
 長い、沈黙。
 先に焦れたのは、タウィールの方だった。
「夢魔が、妹、ターニの双児の姉ですが、やはり金の力を持つウーラを連れ去りました……大々的な捜索隊を組織するのは、やはり国民感情を考えると……」
「夢魔、ですか?」
「はい、この村に着くまでもいくつかの小さな村々で夢魔に侵されて苦しんでいる村を見てきました……夢魔はウーラを取り込むことによって力を付けています。祝福された力を“魔”の闇に落とすわけにはいきません」
 真剣な表情でタウィールは眼前の小さな老人を見る。
 長老がゆっくりとうなづく。
「ついて、来なさい」
 小さな身体を椅子から起こすと、老人は入り口のところにあった地下へと続く階段を指し示した。
「こちらへ」
 老人がゆっくりと歩く後ろを、タウィールとアミールが続く。
 長老は小さな背をピンとのばして歩く。ゆっくりとした歩みだが、足取りに不安はない。
 あちこちに草を干したものや、革袋がぶらさげてある。地下は薬草独特のにおいが立ちこめている。想像していたよりもずっと広い空間は、様々な粉や見たこともない妖物の入った瓶で埋まった棚、大きなテーブルには木の実に花、草、道具類が、そして竈の上の大きな鍋、そんなものでいっぱいだった。
「たしか……」
 白い老人は壁一面の棚の上に目をすべらせる。
「これを」
 村長の差し出した皮袋をタウィールが受け取った。
「これは?」
 袋の中には、丸薬が入っている。小さくて黒いが、臭いはほとんどない。
「眠り薬です。普通は重い病気や怪我で苦しんでいる者が安らかに眠れるように飲ませるのですが、夢もみないくらいに深く眠れるはず。きっとお役にたてるでしょう」
 長は続けた。
「我々は王家に使える薬師、我々の忠誠はあなた方のものです」
 深々と腰を折る老人に、タウィールは手を差し伸べる。
「どうか、長老。私のごとき若輩者に頭をさげられずとも……我々の方こそ、ご老体には色々とご教唆願いたい」