タイトル未定4
 炎がはぜる。
 紫煙がゆっくりと周りの空気に混ざっていく。
 薄暮の中でターニが慎重に炎に手の中の粉を投じている。本格的な闇が来る前に香草の力を借りて、小さな結界を作っているところだ。
 彼女が仕事を終えてタウィールとアミールの真ん中に座る頃には、辺りはすっかり暗くなっていて目の前の炎が照らす限られた空間だけが、彼らに許された場所になっていた。
「お疲れさま、歩きづめで疲れていませんか、ターニ?」
「んん、私は平気」
 心配してくれるアミールにほほえんで、ターニは脚を伸ばした。
 タウィールが上着を脱いで妹の肩に掛ける。
「夜は冷える。これを着ていなさい」
「でも、お兄さまが……」
 ターニの頭を大きな手でポンポンとたたいてタウィールが笑う。
「大丈夫、鍛えているからね、それより脚を見せてごらん」
 ターニの足元にかかんで、タウィールは彼女のブーツを脱がせる。
「お兄さま?」
 とまどっているターニから、アミールは目をそらす。タウィールに軽い嫉妬を覚えていた。
「やはり、少しむくんでいるようだ」
 タウィールは妹の足首の辺りを押さえて、そう言った。
「別に、平気だけど……」
 ターニが小さく兄に反論する。
「まあ、そんなにひどいわけではないが、まだ旅は長い。疲れはためない方がいい」
 少し強めの力でターニの脚を揉みほぐしているタウィールを、見るとはなしに見ていたアミールがふいに声をあげる。
「あれ、タウィール、その短剣は?」
 タウィールの黒いチュニックの腰に巻いた青いサッシュに差し込まれている短剣をアミールは指している。
「え? これか?」
 金の美しいさやに納められたそれは宝剣のようである。
「短剣なんて、いつも持ってましたっけ?」
 長剣の印象が強いせいかな、とアミールはつけ加える。タウィールの長身から繰り出される鋭い剣。
「幼い頃から肌身離さず持っているんだけどね」
 な? とタウィールはターニに同意を求める。
「うん」
 と、ターニは可愛らしく肩をすくめる。
「でも、持ってるだけで抜いたりはなさらないから……」
 アミールが短剣のことを知らなくても無理はない、と言外に彼女は言う。
 そうだな、とタウィールは頷いて、その短剣を炎にかざす。細かい細工とちりばめられた石が赤い炎を反射してきらめく。
「美しい短剣ですね」
 ありふれた言葉だったが、アミールが本心から言っていることの判る心のこもった言葉だ。言葉を飾る必要もない程に、その短剣は美しかったから。
「父上にいただいた、宝物だよ」
「え、私聞いたことない」
 ターニが瞳をかがやかせて兄を見つめる。新しいお伽話でもねだるようにまっすぐ自分を見る、邪気のないこの妹の笑顔に弱い兄は、しかたないな、という風に話し始める。

 あまり詳しくは覚えていない。
 まだ本当に幼い頃のことだろう。
「あれは、多分……」
 タウィールは記憶の底から、その一枚の絵のような光景を呼び覚ます。
 礼拝堂のような場所、だと思う。
 あまり、広くはない。大きな天窓から射し込む陽光が、色付きのガラスを透かして赤や青の影を床に映している。
 その光の輪の向こうに人がいる。
 2人の男が何か小声で話をしている。が影の中にいる2人は、まだ子供のタウィールには顔や服装の判別まではできない。
 が、タウィールは知っていた。2人のうち1人の声には聞き覚えがあったから。
 それは父上の声だった。
「〜〜〜〜」
 名前を呼ばれてタウィールは父王の前に進み出て礼をとる。
 父王がもう1人の男に短剣をわたす。何かを話しながら。声の調子から、とても重大なことのような気がする。
 それは『儀式』のようなものだった、とタウィールは思う。
 短剣はその男から、幼い王子タウィールに手渡される。
 そして父王がタウィールに言葉を掛ける。
 その時の彼には父が何を言っているのか、難しすぎて理解できなかったが、それがとても大事なことだ、ということだけは判った。

「これで全部だよ。それだけしか覚えていない」
 タウィールは言葉を切ると、ターニとアミールを交互に見た。
「それ、私が生まれる前の話? それとも」
 ターニが好奇心満々といった感じで尋ねる。
「たぶん、もっと前だよ。3つかそこらの時じゃないかな」
「ヘェ、なんか暗示的な話ですね」
 タウィールから短剣をかりて、アミールが言う。
「それに、こうして持っていると何かぬくもりを感じる気がする」
 アミールは短剣を、上から下から、ひっくりかえしたり、と飽きずに眺めている。
「あれ、これは石にも細工してあるんですね、珍しいな」
 束の上部に埋め込まれている4つの宝石。少し他のものよりも大きめなその石だけに、表面にうすく細工がほどこしてある。石の上に彫刻れているのに、ぎこちなさはなく、なめらかな紋様を描き出している。
「この短剣を持っていると力がみなぎってくる。加護が施されているのだろう」
 タウィールは、アミールから短剣を受け取ると、無造作に腰のサッシュにはさんだ。
 同時に、タウィールの右手には彼の長剣がにぎられている。
 アミールは背後にターニをかばうようにしながら、少しずつ横に移動してタウィールとの距離を詰める。
 突然立ち上がった男達に、一瞬とまどったターニも、次の瞬間には自分たちの置かれた状況に気づいて身構える。
 結界は生きている。その結界の中に異形の気配がある。かなり力の強い妖物と言っていいだろう。
 3人はたき火を背にして前を見据える。しかし炎が明るい分闇も際だって濃く、光の領分はごく限られたものでしかない。その背後には広大な暗黒が存在するのみである。
 ジリジリとした時間が過ぎていく。
 見えない相手との間合いに、3人は息もつめて集中している。
 空を裂いて何かがターニに襲いかかる。
 一瞬だった。
 アミールがターニを突き飛ばすように倒れ込む。
 ターニがバランスを崩しながら呪文を唱える。
 タウィールが長剣を振り下ろす。
 それらがほとんど同時に行われた。
 そして後には、中型の醜い妖物が自らの強酸性の血でグズグズと溶けだした血だまりが煙をあげている。
「もう、大丈夫だ」
 タウィールが声に出して言ったのは、しばらく経ってからのことだ。
「念のために結界を強化しておいた方がいいな、ターニ」
 妹に声を掛けながら、彼は辺りの気配を探っている。
「そう、ですね」
 兄に応えて、のろのろと立ち上がる。
 アミールは、妖物の血だまりと、先程ターニをおそった、奴の唾液の跡に砂をかけて後始末をしている。
「ターニの結界をやぶる程の異形がそうそういるとは思わないけど、念のため交替で見張りをした方がよさそうですね、タウィール殿」
 護呪がほどこされているため多少のことは平気だと承知しながら、長剣の刃こぼれを一応確認しながらタウィールが応じる。
「そうだな、私が初めに見張りをしよう」
「では、夜半に起こして下さいね、交替しますから」
 男2人の会話に、ターニは自分の体力のなさを痛感したが、どうなるものではない。でも、とりあえず、2人の足手まといにはならないようがんばらなきゃ、心の中でつぶやいて、森の木々の間から空を仰いだ。
 月は日に日にやせ細っていく。新月まで数える程しかないはずだ。
 刻限は次の満月。
 3人の中に小さな焦りが芽生え始めている。